駕洛国首露王が許皇后を夫人堂(熊東面龍院里)で迎え、ここまで来て臣下達を止まらせて二人のみで山へ登り、谷で一晩を一緒に暮らした。王は後で月が明るく照らしてくれたこの山を明月山といって庵に月明りが照らしたその晩のことを思って明月寺と名付けた。
また、王は明月寺を大きく建て増し、前庭にある土地をよく下賜した。そのため、お寺が大きく興盛して、僧侶も三白名にもなり、そのお寺に所属した庵も数ヶ所になった。ところで、当時の首都(金海邑)へ行く道がその寺前を通り過ぎるので、一日に数百人がその寺を行き来した。
お寺では後で人々の行き来が面倒で、行商とは違う変な人さえ見れば、もてなしを手厚くして、“どうすれば、この寺にお客さんが来ないでしょうすか。ちょっと教えてください。”と質問した。
ある日、ある若い過客がこの寺に入ると、僧侶たちは彼にどうすればお客様が来ないかと質問した。若い過客は僧侶の上下に目を通してから、“そんなにお客さんが来ることが面倒なら、この寺の方へ突き出しているあの峰を切っておけば、二度とはお客さんが来ないでしょう。”と教えて行ってしまった。
僧侶達は翌日動き手を雇い峰を切ってしまった。
すると、その後からは本当にお客さんが来なかったが、毎日僧侶が何人ずつ死んで行ったのだ。それで上寺で死んだ僧侶は上寺の辺りで化粧して、下寺で死んだ僧侶は下寺で化粧をした。ということで、今までその火葬場を示して上霊場谷、下霊場谷と呼ぶ。そして、そちらには火に燻った石などがまだ残っている。
良い来由を持っている明月山の明月寺は、かくして滅亡してしまって、今はその場所に原っぱだけが残って竹森が生い茂っている。